ミホノブルボンの想い出

公営競技

無敗の二冠馬誕生

昨日のコントレイルを見て「無敗の二冠馬」で一番に思い出したのが、ミホノブルボンです。先日ご紹介したレガシーワールドと同じ戸山為夫調教師の厩舎で最も活躍したお馬さんで、1992年の皐月賞、日本ダービーを制し、その年一番活躍した馬に与えられる「年度代表馬」になっています。

強いものは強い!

この馬は3歳(今の呼び方では2歳)のときから破格に走破タイムが優秀で、大変人気がありました。当時の私は無理に人気薄の馬を探すきらいがありまして、強さを思い知る頃にはその馬のピークが終わっているなんてこともありました。

ミホノブルボンが最初に優勝したGⅠ朝日杯3歳ステークスも、2着ヤマニンミラクルとはハナの差、ほんの僅かな差です。競馬は「追いかけっこ、駆け比べ」ですので、一着と二着の差はとても重要です。当時の私はこの差が分かりませんでした。ヤマニンミラクルは勝負の運もありましたが、同じレースを同じタイムで走った能力があったにもかかわらず、その後1勝もせず競走生活を終えています。

三冠はならずも負けて強し、そして引退へ

「距離が・・・」「血統が・・・」何となく疑問符がつきながらも、この馬に一番期待が高まったのは「菊花賞」だったと思います。何といってもここまでの成績が他を寄せ付けないものでしたし「無敗の三冠馬にふさわしいのではないか」「この馬ならやってくれるんじゃないか」という期待があったんですよね。

前の段落にわざと「他を寄せ付けない」と書いたんですけど、忍び寄って来てたのがいるんですよね、それが「ライスシャワー」です。馬名はおしゃれですけど鞍上の的場騎手、黒鹿毛の馬体とあって、本当に地味に迫って来てたんです。ダービーを16番人気で2着、次の対戦となった京都新聞杯は0秒2差まで近付き、京都の3千メートルの長丁場・菊花賞で、ついにブルボンは捕らえられました。

次の目標としたジャパンカップの調教中にケガをして、復帰することなく引退してしまうのですが、ケガなくジャパンカップを走ってくれていたらと今もたまにですが考えることありますよ。それくらい強い馬だったんです。

生涯全て小島貞博ジョッキーが手綱をとりました

ミホノブルボンを強く印象付けているのは、「栗毛」「発達した筋肉」そして「小島貞博ジョッキーの存在」です。

今は外国人ジョッキー全盛の時代ですけれど、この頃は「自厩舎の馬に自厩舎のジョッキーを乗せる」という形にこだわる調教師さんも残っていました(今も残ってはいますよね)。戸山厩舎の主戦騎手だった小島ジョッキーの活躍は、戸山調教師にとっても嬉しいものだったと思います。

8戦7勝のブルボンの競走生活すべてで小島騎手は手綱をとっています。朝日杯の際どい勝利で自身初のGⅠ制覇を記録していますが、皐月賞のインタビューで涙を流されていたのが記憶に残っています。クラシックは別格という当時の感覚もあったと思います。

小島騎手は技術の確かなジョッキーで、その後もダービー、オークスなどの大レースを優勝しますが、どうしても受ける印象は淡々としていて「地味」な記憶が残っていますね。

もしケガをせずにいたらなんて考えてしまうミホノブルボンですけれど、小島ジョッキーを背にターフを駆けた素晴らしい日は、当時競馬を見ていた皆さんの記憶にずっと残っていると思います。今見ても「目の覚めるようなレース」ですよ、良かったら一度ご覧下さい。

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