真っ直ぐ過ぎるプロレスラー、総合格闘家
今回ご紹介するのは、船木誠勝(ふなき まさかつ)選手です。
船木選手は新日本プロレスで、1985年3月、何と15歳のときにプロデビューしています。
中学校を卒業する必要もありますし、プロレスのリングに上がるまでのトレーニング期間が必要ですから、とんでもないスピードデビューですね。デビューからしばらくの間は本名の「優治(まさはる)」でリングに上がっていました。
何しろ「若い」ということで、将来をおおいに期待されていた選手でした。
顔も整っていますしね(引退後は俳優の活動もされました)。
ですが、この後の船木選手はプロレスラーとしての道から「真っ直ぐ、一直線」に離れるように、自分の道を進んでいくことになります。
自分の団体「パンクラス」を旗揚げ
私の船木選手の印象は「真っ直ぐ」です。
船木選手は新日本プロレスのキャリアをわずか4年で終わりにし、1989年5月第2次UWFのリングに上がります。リングネームもこの年に今の「誠勝」に変更しています。
先輩選手を次々と倒し、一気にスター選手としての人気を高めていきますが、翌1990年には団体が解散。師匠格だった藤原喜明選手を頼る形で「藤原組」に参加します。
しかし、この藤原組でも「方向性の違い」は明らかで、2年ほどで離脱することになります。
UWF参加あたりから、船木選手の「強くありたい」という気持ちは、「格闘技志向」という形になって現れ、段々と「先鋭化」していったと思います。「プロレスラー」という枠に段々と収まらなくなっていったんですね。
その結論というか、一つの形となって我々の前に姿を現したのが、1993年に船木選手が興した団体「パンクラス」でした。
「プロレス」か「プロレスじゃない」かは、他の方の議論に譲りますが、船木選手がやりたかったことを形にしたのは間違いないと思います。賛否両論はありましたよ。「面白い」か「面白くない」かだって、個人の感想・主観の範囲の問題ですからね。
それでも、「今までこの世に無かったものを我々の前に生み出していく」というのは、船木選手をはじめとしたパンクラスの選手たちの情熱があればこそで、数々の記憶に残る闘いを残していきました。
ヒクソン・グレイシー戦で一度は引退
東京ドームのメーンイベントを務め、衝撃の引退
パンクラスでその格闘技志向をどんどん強めていった船木選手は、当時「400戦無敗の最強の男」としてもてはやされていたブラジルの柔術家ヒクソン・グレイシーと闘う場を得ることに成功します。
コロシアム2000というテレビ東京が後援した大会で、ヒクソン選手のギャラも相当だったと思いますが、大変大きな格闘技大会になりました。そのメーンに船木選手が選ばれたのです。私も例によってスタンド後方席でしたが、船木選手の応援に行きましたよ(^^)
残念ながら敗れてしまった船木選手ですが、その場で「引退」を表明します。元から負けた時は引退と考えていたのかも知れませんが、「一度負けただけで引退なんて」と当時はとてもショックだったのを覚えています。船木選手は31歳で現役生活を終えることになりました。
YOUTUBEも真っ直ぐ
2007年にプロレス、格闘技の世界に戻って来てからの船木選手の試合はあまり見ていませんが、最近は船木選手が提供してくれているYOUTUBE動画を楽しみにしています。
船木選手は、昔から丁寧で真っ直ぐ、正直すぎるほど正直に、自分の身の回りに起きたことをお話するイメージがありました。
船木選手のYOUTUBEは、当時のイメージそのまま、お話も分かりやすく、大変興味深く拝見させてもらっています。
対談とかも上手で、相手を敬ってお話をされているのが確実に分かるところが好印象ですね。
まだまだ話のネタは尽きないようですし、お話もさらに上手くなられているので今後も楽しみです(^^)
船木選手の公式YOUTUBEチャンネルはこちらから
最後にご紹介したいのは、著書「船木誠勝のハイブリッド肉体改造法」です。
船木選手にはこの他にも何冊か著書がありますが、この本は、当時も大変話題になりました。
プロレスラー、格闘家の肉体について、自分の言葉で語ってきた船木選手だからこその一冊になっています。
もう古い本にはなってしまいましたが、当時からこれだけの言葉を持ち合わせた船木選手の凄さが分かると思います。
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